松尾芭蕉は、名前を聞いたことが無い人はいないくらいに有名な人ではないでしょうか。
その名前と一緒に出てくるのが「奥の細道」。
長い距離を歩きながら各地を巡り、多くの俳句を残した際の日記として知られています。
しかし、その「奥の細道」での移動したルートと、かかった日数を見てみると
普通の人には到底不可能なスピードで長距離を移動しているのです。
その移動ルートとかかった日数があり得ないことが、「松尾芭蕉は忍者」だと言われている理由です。
松尾芭蕉は本当に忍者なのでしょうか?
奥の細道のルートと日数は本当に不可能なのでしょうか?
今日はそれについて詳しく見ていきます。
「松尾芭蕉と同じルートを歩いてみたい」という人は是非参考にしてみてください。
松尾芭蕉は忍者だったの?
松尾芭蕉が忍者だと言われている理由は、いくつかの説があります。
一つは、彼が忍者の里で知られる伊賀国に生まれ、伊賀流忍術の祖とされる百地丹波の子孫だったということです。
もう一つは、彼が奥の細道の旅で仙台伊達藩の動向を探るなどの幕府の密命を遂行したということです。
さらに、彼が年齢にしては健脚で、旅の資金や手形を容易に入手したことや、弟子の河合曽良が実は忍者だったということも、
松尾芭蕉忍者説を支持する根拠とされています。
しかし、これらの説はあくまで推測や憶測に基づいており、確かな証拠や史料はありません。
松尾芭蕉自身は俳句や連句に情熱を注ぎ、自然や人々の暮らしを詠んだ作品を残しました。
彼は忍者ではなく、俳聖として世界的にも知られる日本史上最高の俳諧師の一人であると言えるでしょう。
松尾芭蕉ってどんな人?
松尾芭蕉とは、江戸時代前期の俳諧師で、俳聖として世界的にも知られる日本史上最高の俳諧師の一人です。
彼は、俳諧の発展に大きく貢献し、独自の句風である蕉風を確立しました。
彼は、多くの紀行文や句集を残しましたが、特に有名なのは『奥の細道』です。
これは、弟子の河合曾良とともに江戸を出発し、東北から北陸を巡り、美濃国の大垣までを記した旅日記です。
この旅で詠んだ句には、「五月雨をあつめて早し最上川」や「荒海や佐渡によこたふ天の河」など、多くの名句が含まれています。
松尾芭蕉のは伊賀(忍者の里)で生まれている
松尾芭蕉の生涯を時系列にまとめると、以下のようになります。
1644年(正保元年):伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)に豪農の次男として生まれる。本名は松尾宗房。
1656年(明暦2年):13歳で父親を亡くす。
1662年(寛文2年):18歳で伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・良忠(俳号は蝉吟)に仕える。良忠から俳諧を教わり、北村季吟に師事する。
1666年(寛文6年):24歳で良忠が亡くなる。仕官を退き、俳諧を続ける。
1672年(寛文12年):29歳で処女句集『貝おほひ』を上野天神宮に奉納する。
1674年(延宝2年):31歳で北村季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授を受ける。
1675年(延宝3年):32歳で江戸に下る。日本橋小田原町に住む。
1678年(延宝6年):36歳で俳諧宗匠となる。深川に草庵「芭蕉庵」を構える。
1680年(延宝8年):38歳で俳号を桃青から芭蕉に改める。
1684年(貞享元年):41歳で最初の紀行文『野ざらし紀行』の旅に出る。
1689年(元禄2年):46歳で最も有名な紀行文『奥の細道』の旅に出る。
1694年(元禄7年):50歳で旅先の伊賀上野で亡くなる。
忍者ってどんなことをするの?
忍者とは、忍術を駆使して敵地に潜入したり、諜報や暗殺などの活動を行った人たちのことです。
忍者は日本の歴史において、戦国時代から江戸時代にかけて活躍しました。
忍者は地方によって呼び方が異なり、乱破や素破、草などとも呼ばれました。
特に有名なのは、伊賀国や甲賀国を本拠地とした伊賀者や甲賀者です。
彼らは大名や幕府に仕えて様々な任務を遂行しましたが、その実態はあまり知られていません。
忍者は昭和30年代以降、小説や映画、漫画などの創作作品で多く取り上げられ、その姿や能力が想像や誇張されました。
忍者は世界的にもNinjaとして知られており、日本文化の代表的な存在となっています。
奥の細道ってどんな物語?
「奥の細道」とは、松尾芭蕉が46歳の時に弟子の河合曾良と江戸を出発して、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文です。
この旅は、およそ155日間、2400㎞の道のりでした。
芭蕉は、この旅で多くの名所や古跡を訪れ、その場所で詠んだ俳句や感想を書き留めました。
その中には、「五月雨をあつめて早し最上川」や「荒海や佐渡によこたふ天の河」など、有名な句がたくさん含まれています。
「奥の細道」は、芭蕉が崇拝する西行法師の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に始まった旅でした。
芭蕉は、西行法師のように自然や人々の暮らしを詠んだ和歌に憧れていました。
また、俳句を和歌と同じくらいの価値ある芸術に高めることを目指していました。
そのために、贅沢をせず、草庵に住み、厳しい旅に出かけていきました。
「奥の細道」は、芭蕉が亡くなる半年前に完成させました。
彼は、この紀行文を兄に預けて伊賀に帰郷しましたが、そこで病没しました。
彼の兄は、彼の遺言に従って弟子の向井去来に「奥の細道」を譲りました。去来は、「奥の細道」を出版して世に広めました。
「奥の細道」は、日本文学史上でも最高傑作とされる作品です。
芭蕉の俳句は、自然や人々の情景を素朴に詠んだものが多く、日本人の心に深く響きます。
「奥の細道」を読むと、芭蕉の旅の様子や思いが vividly 伝わってきます。
奥の細道のルート
奥の細道とは、江戸時代の俳人松尾芭蕉が、尊敬する西行法師の五百年忌にあたる1689年(元禄2年)に江戸を出発し、
東北から北陸地方を実際に旅し、それぞれの地の様子などを文章や俳句でまとめた旅行記です。
この旅は、およそ155日間、2400㎞の道のりでした。
奥の細道のルートは、以下のようになっています。
江戸(現在の東京都)の深川を出発し、日光街道を通って日光(現在の栃木県)に向かう。
日光から黒羽(現在の栃木県)を経て、白河の関(現在の福島県)を越えて陸奥国(現在の宮城県・岩手県・青森県など)に入る。
陸奥国では、仙台・松島・平泉・花巻・盛岡などを訪れる。
出羽国(現在の山形県・秋田県など)では、米沢・最上川・酒田・象潟などを訪れる。
越後国(現在の新潟県)では、新潟・佐渡島などを訪れる。
越中国(現在の富山県)では、高岡・富山などを訪れる。
加賀国(現在の石川県)では、金沢・白山などを訪れる。
越前国(現在の福井県)では、敦賀・越前海岸などを訪れる。
美濃国(現在の岐阜県)では、大垣・関ヶ原などを訪れる。
伊勢国(現在の三重県)に向けて出発する。
このルートは、東北や北陸の名所や古跡を巡りながら、自然や人々の暮らしを詠んだ俳句や感想を書き留めたものです。
その中には、「五月雨をあつめて早し最上川」や「荒海や佐渡によこたふ天の河」など、多くの名句が含まれています。
奥の細道の不思議
「奥の細道」ですが、よく見てみると不思議なことがいくつかあります。
それについて詳しく見ていきます。
・奥の細道の不自然なルートは「忍者としての密偵」が目的?
奥の細道のルートは、松尾芭蕉がどのようにして決めたのでしょうか。
それは、彼が尊敬する西行法師の足跡や古歌の名所・旧跡などを巡ることを目的とした旅だったからです。
彼は、西行法師のように自然や人々の暮らしを詠んだ和歌に憧れていました。
また、俳句を和歌と同じくらいの価値ある芸術に高めることを目指していました。
そのために、贅沢をせず、草庵に住み、厳しい旅に出かけていきました。
彼は、江戸時代の地図や旅案内書などを参考にしながら、自分の興味や感性に従ってルートを決めていきました。
しかし、そのルートは固定されたものではなく、途中で変更することもありました。
例えば、仙台から平泉へ向かう途中で、曾良が病気になったために花巻で一週間ほど滞在したり、新潟から金沢へ向かう途中で佐渡島へ渡ったりしました。
また、彼は旅先で出会った人々や友人から情報や助言を得ることもありました。
つまり、奥の細道のルートは、松尾芭蕉が自分の目的や感性に基づいて計画したものであり、
同時に旅の途中で起こった偶然や必然によって変化したものでもあったと言えるでしょう。
・移動距離の長さ、かかった日数が不自然
奥の細道の旅は、松尾芭蕉が弟子の河合曾良とともに、江戸を出発して東北から北陸を巡り、美濃国の大垣までを記した紀行文です。
この旅は、およそ155日間、2400㎞の道のりでした。
一日あたりの平均移動距離は約15.5㎞ですが、実際には場所や状況によって変わっていました。
例えば、黒羽では14日間滞在しましたが、佐渡島では一日で渡りました。
奥の細道の旅は、松尾芭蕉が自分の目的や感性に基づいて計画したものであり、同時に旅の途中で起こった偶然や必然によって変化したものでもありました。
彼は、西行法師の足跡や古歌の名所・旧跡などを巡ることを目的としていましたが、
途中で病気や天候などに遭遇したり、人々や友人から情報や助言を得たりして、ルートを変更することもありました。
奥の細道では、松尾芭蕉が訪れた場所の様子を文章でまとめ、俳句を一句詠んでいます。
その中には、「五月雨をあつめて早し最上川」や「荒海や佐渡によこたふ天の河」など、多くの名句が含まれています。
彼は自然や人々の暮らしを素朴に詠んだ俳句で、その土地の美しさや情景を伝えています。
・松尾芭蕉は旅の道中の資金はどの様にして手に入れていたのか
奥の細道の旅で、松尾芭蕉がどのようにして資金を手に入れていたのでしょうか。
それは、彼が多くの門人やファンからカンパや報酬を受けていたからです。
松尾芭蕉は、俳句を和歌と同じくらいの価値ある芸術に高めることを目指していました。
そのために、贅沢をせず、草庵に住み、厳しい旅に出かけていきました。
しかし、その旅には多額の費用がかかりました。
彼は自分で稼ぐことはせず、門人やファンからの援助に頼っていました。
彼は旅先で句会や連句会などに参加し、その際に出座料や加点料などの報酬を得ていました。
また、彼が書いた短冊や色紙なども高値で売れました。
さらに、彼は熱心なファンからカンパや路銀(旅費)を受け取ることもありました。
例えば、金沢からはるばる追いかけてきた人が彼に路銀を渡したという話があります。
つまり、奥の細道の旅での資金は、松尾芭蕉が自分の俳句や文学で得たものであり、同時に彼を支持する人々からの寄付や贈り物であったと言えるでしょう。
・弟子(河合曽良)が遺した「曽良旅日記」に矛盾点がある
奥の細道とは、松尾芭蕉が1689年(元禄2年)に弟子の河合曽良とともに江戸を出発して、東北から北陸を巡った旅を記した紀行文です。
曽良旅日記とは、河合曽良が同じ旅で書き留めた日記や覚書です。
両者は同じ旅をした人物の作品ですが、内容や表現にはいくつかの矛盾点があります。以下に主なものを挙げます。
始発地点の違い
奥の細道では、芭蕉と曽良は江戸深川の芭蕉庵から出発したことになっています。
しかし、曽良旅日記では、芭蕉は深川から出発したが、曽良は江戸城下の馬屋から出発したことになっています。
この違いは、芭蕉が自分と曽良を同じ立場に置くことで、師弟関係を超えた友情を強調したかったからだと考えられます。
日付や天候の違い
奥の細道では、芭蕉が詠んだ俳句や感想を書くために、日付や天候を都合よく変えたり省略したりしています。
例えば、仙台で詠んだ「五月雨をあつめて早し最上川」は、実際には4月25日に詠まれたものですが、奥の細道では5月5日に詠まれたことになっています。
これは、芭蕉が五月雨という季語を使うために日付をずらしたかったからだと考えられます。
一方、曽良旅日記では、日付や天候を正確に記録しています。
これは、曽良が事実を忠実に伝えることを目的としたからだと考えられます。
詠句や句会の違い
奥の細道では、芭蕉が詠んだ俳句は51句しか収録されていませんが、実際には104句詠んでいます 。
これは、芭蕉が自分の作品を厳選して掲載したかったからだと考えられます。
また、奥の細道では他の人々が詠んだ俳句も少なく掲載されています。
これは、芭蕉が自分の作品を主役にしたかったからだと考えられます。
一方、曽良旅日記では、芭蕉が詠んだ俳句は86句収録されており、そのうち45句は奥の細道には掲載されていません。
また、曽良旅日記では他の人々が詠んだ俳句も多く掲載されており、特に道中で行われた句会や連句会の記録が詳しく書かれています。
これは、曽良が芭蕉や他の俳人との交流を大切にしたかったからだと考えられます。
以上のように、奥の細道と曽良旅日記は、同じ旅をした人物の作品ですが、内容や表現にはいくつかの矛盾点があります。
これは、芭蕉と曽良がそれぞれ異なる目的や感性で旅を記録したためだと考えられます。
芭蕉は自分の俳句や文学を高めることを目指しており、自分の作品を選択的に掲載し、情緒的な表現を用いました。
曽良は芭蕉や他の俳人との交流を大切にしており、事実を忠実に伝えることを目的として、多くの作品や情報を記録し、素朴な表現を用いました。
・弟子(河合曽良)が忍者なのか
河合曽良は忍者だったのでしょうか。
河合曽良は、松尾芭蕉の弟子で、『奥の細道』の旅に同行した俳人です。
彼は、その旅の様子を自分の視点で記した『曾良旅日記』を残しました。
この日記は、芭蕉の俳句や文学を解明する上で重要な資料となっています。
河合曽良が忍者だったという説は、いくつかの根拠に基づいています。
その中には、以下のようなものがあります。
彼は信濃国(現在の長野県)の高島城下に生まれました。
この地は忍者の里で知られる伊賀国に近く、彼の母方の祖先は伊賀流忍術の祖とされる百地丹波(ももちたんば)の子孫と言われています。
彼は松尾芭蕉とともに奥州・北陸を巡る旅をしましたが、その旅程や日付には不自然な点が多く見られます。
例えば、仙台で詠んだ「五月雨をあつめて早し最上川」は、実際には4月25日に詠まれたものですが、『奥の細道』では5月5日に詠まれたことになっています。
これは、芭蕉が五月雨という季語を使うために日付をずらしたかったからだと考えられます。
しかし、このような変更や省略は、芭蕉が自分の作品を選択的に掲載し、情緒的な表現を用いたためだとも考えられます。
彼は松尾芭蕉の逝去後、幕府の巡見使(じゅんけんし)随員となり九州を廻りましたが、
翌年、壱岐国(現在の長崎県)で病没しました。
巡見使とは諸藩の政治状況や幕令の実施状況を調査するために、幕府が派遣する役人のことです。
隠密か否かの違いはあれど、やっていることは諜報活動のようなものです。
以上のように、河合曽良が忍者だったという説は、いくつかの根拠に基づいていますが、それらは必ずしも確実なものではありません。
彼が忍者だったという証拠は見つかっていませんし、彼自身も忍者であることを明言していません。
また、彼が俳人として詠んだ句や記録した日記からも、忍者であることを示す特徴や技術は見られません。
むしろ、彼は温厚篤実な人物で、芭蕉によく尽くし、神道家としての学識も深かったことが伝えられています。
つまり、河合曽良が忍者だったという説は、あくまで一つの可能性であり、確かなことではありません。
彼は俳人として芭蕉との交流を大切にしており、事実を忠実に伝えることを目的として、多くの作品や情報を記録し、素朴な表現を用いました。
「松尾芭蕉は忍者だったのか。奥の細道はどんなルート?」についてのまとめ
松尾芭蕉の奥の細道、河合曽良の曽良旅日記を掘り下げてみると、不自然な部分が多く、特に注目されている「移動距離と日数」を見ると、
松尾芭蕉も河合曽良も忍者だったのではないかと思ってしまいます。
しかし、現段階て「忍者だった」と言い切ることはできず、どれも「忍者だったかもしれない」という憶測に結び付くものでしかありません。
松尾芭蕉のゆかりの地である東京の深川は東京名物の「深川飯」が美味しいですし、
仙台も、松島も、盛岡も、綺麗な景色を見ることができる場所です。
松尾芭蕉はどんな場所で何を見て、どんなことを感じてどんな俳句を詠んだのか、
文章やネットでも追えることですが、実際に自分の目で見て五感を使って感じると、
また別の感情が生まれてくるのではないでしょうか。
是非、一度、一つ一つの地に足を運んで、その時の松尾芭蕉のと同じ感覚を体感してみてはいかがでしょうか。
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